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大福と書いて字のごとく、食べると幸せになれる和菓子

和菓子があまり好きではない、という方も、現代風の生クリーム入りの和菓子で「生クリーム大福なら好き」という方も、いらっしゃるのではないでしょうか。

大福は、その柔らかい皮で色々なものを包むことができ、生クリームの他にも、スポンジケーキが中に入っているものもあります。

現代風に洋風なアレンジが大成功している和菓子、とも言えるお菓子ですね。

普通の大福でも、だんごやまんじゅうと同様に、四季によっても地域によっても、色々なバリエーションがあるのも、人気である理由の一つです。

あんこが入ったものの他に、あんこと一緒に苺、ブドウ、栗などの果物が入ったもの、あんこにも小豆のあんの他、白インゲンからできた白あん、芋あん、桜あん抹茶あんなど中身も様々です。

また、生地にも色々な種類があり、塩ゆでされた赤エンドウ豆が入った豆大福や、生地にヨモギを練り込んだヨモギ大福、生地と中身のあんこに程よく塩を加えた塩大福、その他、あんの入っていないものなどもあります。

このように全国で親しまれている大福ですが、その作り方は、餅米の粉や白玉粉に砂糖、塩を加えて水でよくこね、蒸したものを、さらによくこねて生地にします。

その生地で、様々なあんこや果物などを包み、イチゴ大福や豆大福などに仕上げます。

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さて、その「大福」…食べると確かに幸せな気分には、なりますよね。それでは、どうして「大福」と呼ばれるようになったのでしょうか?これから、その起源について紹介していきます。

現在の形の甘い大福は、砂糖が多く普及し始めた江戸時代頃に人気商品になったとされています。

江戸時代より前から、大福はありましたが、登場した当初のものは大福は「大きな福」ではなく「大きな腹」と書いて「大腹」という和菓子でした。

当時は、表面を焼いて、焼き餅の形で売られていたようで「大腹餅(だいふくもち)」、または「腹太餅(はらふともち)」という名前だったようです。

なぜ「大腹餅」や「腹太餅」と呼んだか、というと、現在の大福に比べると、その大きさはかなり大きなもので、食べるとお腹がいっぱいになったからだと言われています。

大きなお腹になるお餅、ということからお腹いっぱいの幸せということにつながり、いつしか「大腹」が「大福」に変化したのでしょう。

今も昔も、お腹が満たされる幸せは、変わらないものですね。

また、この頃のあんこは塩が入った塩あんだったようで、現在のような小ぶりで甘いあんこの大福になったのは、江戸時代になってからだ、と言われています。

ちなみに、この塩辛い「大腹」の原型とされるものは、現在でも一部の地域に残っています。

名前は、「塩あんびん」または「塩餅」という名前で呼ばれている商品です。中に小豆は入っていますが、砂糖を使わずに塩で味付けされており、埼玉の北東部で食べられています。

砂糖が使われていない、ということから、食べる際には、砂糖や砂糖しょう油をつけたり、蜂蜜をつけて食べるなどの食べ方があります。

塩辛い小豆あんのお餅に、砂糖をつけて食べる…ちょっと味の想像がつきませんが、普通の大福と食べ比べてみるのもなかなか面白そうですね。

おしるこの付け合わせと言えば…塩昆布かシソの実ですよ

おしるこは、冬の寒い日には特においしい食べ物です。その人気から、自販機でも売られているのを見かけます。粒あんの入っているものもありますね。

缶の飲料として手軽に楽しめ、冬に行われるお祭りなどでも見かける和菓子「おしるこ」ですが、いったいいつ頃から存在しているのでしょうか?

おしるこは、江戸時代末期にはあったと言われています。元々は「餡汁粉餅(あんしるこもち)」や「汁粉餅(しるこもち)」と呼ばれ「おしるこ」とは、この略称ということになります。

一番最初のおしるこは、汁はほとんど無く、焼くなどした餅の上に、甘く煮た小豆を乗せたものだったようです。しかし、江戸では餅のないおしるこが誕生しました。

それは、こしあんをお湯で溶いたものと一緒に、塩漬けのシソの実などを添えて提供される「御膳しるこ」という名前のおしるこでした。

のちに、江戸を含め、全国で餅や白玉だんごが入るようになり、現在の形になりました。

そのため、現在でも粒の無いおしるこを「御膳しるこ」また、粒があるものは「田舎しるこ」と呼ぶ場合があります。

ちなみに、この御膳しるこは現在でも食べることができ、特に浅草の「梅園」は有名店です。また、現代の変わり種のおしるこには「懐中しるこ」というものがあります。

懐中しるこは、簡単に説明するとインスタントのおしるこです。乾燥させたあんこの粉を、お湯で溶かすとおしるこになります。

一見おしるこに見えないというところが面白いところです。その見た目は、あんこの粉がもなかの皮に包まれており、少し大きめのもなかか、大きいはまぐりのようです。

あんこの粉がバラバラせずに、見た目も美しく、お湯でふやけてあんこの絡んだもなかの皮もおいしい和菓子です。もしも京都などで見かけたら、ぜひお土産にどうぞ。

さて、おしるこの付け合わせ、と言えば塩漬けのシソの実や、塩昆布ですね。シソの実の付け合わせは、おしるこが誕生した時から付け合わせにされていました。

「あんこなどの甘いものに、塩気を加える」ということは、実はおしるこ以外にも行われています。

例を挙げると、まんじゅうの中身のあんこに少し塩を加えたり、おはぎのあんこに少し塩を加えたり、ということがあります。

これは、「味の対比効果」を期待したもので、舌に対して「より甘くておいしい」という錯覚を起こさせるものです。日常的に使われている例を挙げると、スイカに塩をかけて食べるのもこのためです。

つまり、甘いおしるこにしょっぱいものを添えることにより、おしるこの甘みが引き立ち、おしるこが、より甘くおいしく感じられる、というわけですね。

おしるこによく添えられる「シソの実」ですが、これは何かというとシソの「花の穂」です。穂の状態では、よくお刺身などに添えられていることがあります。

シソは、風味もよく、口の中をさっぱりとさせてくれますね。

お刺身などとそのまま食べるのにも、塩漬けにするのにも、花が枯れていない状態で摘み取って使うと良いとされています。そうするとプチプチの食感もあり、口当たりも良いです。

また、シソの実には甜茶の50倍、シソの葉の100倍という抗アレルギー作用や、生体内抗酸化作用もあると言われています。

おしるこを食べる際には、塩気のあるものを忘れずに、また、シソの実がある場合は、その爽やかな香りと塩気も、楽しんでみてくださいね。

羊羹って漢字で書くと、「羊のあつもの」だって知ってた?

羊羹は見るからに「あんこのかたまり」といった風貌で、特に「和菓子が好き」という方でなければとっつきにくいイメージのある和菓子ではないでしょうか。

今回は、そんな羊羹の秘密について紹介します。

羊羹は大きく分けると2種類で、寒天で固める「練り羊羹」と、小麦粉や葛粉などで固める「蒸し羊羹」があります。

安いもの、高価なものも含め、市場に出回っている羊羹は、主に練り羊羹である場合がほとんどです。

なお、夏によく出回る「水羊羹」は、羊羹を固める際に寒天を少なめにして、ゆるめに固めた練り羊羹となります。

この水羊羹には、竹の筒に詰められているものなどもあり、食べる人の目を涼しませてくれます。

その他、羊羹には小豆の他に、さつまいもを使う芋羊羹や、柿を入れて作る柿羊羹、栗が丸ごと入った栗羊羹や、白いインゲン豆で作った白い羊羹、抹茶入のもの、粒あんが散りばめられたものなど様々な種類があります。

それぞれ素材によっては、寒天を使用し型に流し込んで固めたりする他、蒸す形で固めるものも、中にはあります。

さて、羊羹を数える時には、「一棹(さお)」と数えますが、これには、昔使っていた羊羹の型の呼び方に秘密があります。

練り羊羹は江戸時代には、人々に親しまれていましたが、その頃は「船」と呼ばれる箱を使い、そこへ流し込んで、固めて作っていました。一船で12棹になるほどの大きさだったようです。

「船には棹(さお)が付き物だ」ということで、羊羹を数える際には「一棹、二棹」と数えるようになったと言われています。

その他、練り羊羹は糖分が多いことで、真空パックのものは常温でも長期の保存が可能となります。そのため保存食としても重宝されています。

ところで、羊羹の羊はヒツジという字です。「どこもヒツジに関係ないのに、不思議だ」と思ったことはありませんか?

「羊羹」とは鎌倉時代の頃、僧侶などにより中国から伝わったものです。しかし、元々は甘いお菓子ではありませんでした。

「羊羹」とは、訓読みで読むと「ひつじ(の)あつもの」と読むことができます。「あつもの」とは何のことかというと、温かい汁物のことです。

「あつものに懲りてなますを吹くなかれ」ということわざがありますが、その「あつもの」と同じ意味です。つまり、伝わった当初の羊羹とは、点心の一種であり「羊の肉を使った温かい汁物」だったのです。

しかし、日本では宗教的にそのような肉を食べる習慣がなかったためと、点心は僧侶の間食としても食ベられる必要があったため、肉は使わずに、豆類などで代用して作られるようになりました。

最初は豆類などを使った汁物であった羊羹は、その後、身につけて修行に出るなど、携帯したり保存したりする目的で、蒸し羊羹に姿を変えました。

この蒸し羊羹とは、多少の保存ができるように、小豆などの豆類に砂糖、葛粉や米の粉などを混ぜ、長い木枠に入れて蒸し固めたものだったようです。

その後、現在のような、甘い練り羊羹へと変わり始めたのは、江戸時代の頃のことです。甘い砂糖が普及し、この頃には寒天の発見もされたことで、なめらかな練り羊羹が作られるようになりました。

羊羹は、食物繊維が豊富な寒天と、ビタミンなどが多く含まれる小豆でできた、とても健康的な和菓子です。夏の暑い日にはぜひ、よく冷やした水羊羹で夏バテ予防をしてください。

だんご、どうやって食べるかはあなた次第のみんな大好きな和菓子

だんごは、庶民的な和菓子の代表とも言える存在です。食べ方も様々で、食べる方の好みによっては、甘くなったり辛くなったりします。

その生地や、中にあんこを入れるか入れないかなど、種類も様々で、日本中には数え切れないほどの種類があります。

だんごの基本的な作り方は、うるち米を粉状にひいた上新粉などを水でこね、丸めて蒸す、またはゆでるなどして作ります。

生地には、上新粉の他に黍(きび)、粟などの雑穀を使用することもあります。

餅との違いですが、餅は、うるち米や餅米を米の形のまま蒸してついて作るのに対して、だんごの場合は、いったん米を粉状にしたものをこねて、蒸したりゆでたりしたもののことを言います。

最初に米の状態のまま蒸すか、粉上にしてこねてから蒸すかの違い、ということですね。

味付けは、しょうゆなどで漬け焼いたり、タレを塗ったり、ノリを巻いたり、あんこを乗せたりするなど、甘くも辛くもなります。

また、フルーツポンチ、あんみつなどに混ぜられたり、パフェの上に乗せられたり、味噌汁などに加えられるなど使い方も様々です。

さらに、生地自体にヨモギや、食紅などを練りこんで、緑色や桃色に彩られるものや、中にあんこを入れてあんだんごとするものもあります。

その他、愛媛県の坊っちゃん団子のように、餅があんこで包まれているもの、岡山で有名なきびだんごは、黍(きび)という雑穀が生地の原料となっていたりと、だんごの種類はたいへん多く数え切れないほどです。

さて、そんな色々な種類のあるだんごですが、その起源とは何なのでしょうか。

今では日本全国に馴染み、色々な種類のあるだんごですが、元々は中国から伝わった「団喜(だんき)」という唐菓子が起源だとされています。

元々の団喜は、小麦粉の生地であんこを包み、ゴマ油などで揚げたものだったようです。

だんごは、昔はお供え物としてお祭りの際に、神様にお供えされるものでした。その後、茶屋などでも作られるようになりました。

保存食としても食べられていたとされ、味付けはしょうゆなどに漬けて、焼いたものが一般的だったようです。

その後、茶屋の発達などにより、甘みのついただんごが次第に人気となりました。甘辛いものでは特に、京都最古の神社の一つと呼ばれる、下鴨神社のみたらし団子は有名で、「みたらしの発祥の地」と呼ばれています。

「なぜ串に刺すようになったのか?」については、だんごはお供え物にする以外にも、畑仕事の合間に食べるおやつとしての食べ方もありました。

そのため、単純に食べやすいから、また食べ歩きしやすいから、などの理由があるとされています。その他、下鴨神社ではだんごの数は一つの串に5個となっています。

これは、参拝前に手を洗う「御手洗池」から泡が浮かんできた時の様子を表したものである、とか、人体の頭と四肢を表したもので、五体満足を願ったものである、などという説があります。

その他、関東では関西に比べて、一串に5個のだんごよりも4個のだんごの方が多く見られるようです。

これには、江戸でも元々は一串5個のだんごを5文で売っていたのに、4文硬貨が普及したことによって勘定をしやすくするという点から、一串4個、4文で売り始めたことがきっかけのようです。

水無月って関東ではあまり見られないけど関西では有名なんです

関西には、水無月(みなづき)という和菓子があります。関東ではあまり見られませんが、これはどのような和菓子なのでしょうか。

「水無月」とは6月の別名でもありますが、和菓子の一つであり、底辺の長い三角形の形に切り分けられたういろうの一種です。

関東の方ではあまり見られませんが、関西の方では特に、6月頃になると出回る和菓子です。

使用されるういろうの生地には、白いものの他に、緑の美しい抹茶味や、香り豊かな黒糖味のものがあります。

生地の上には甘く蒸した小豆がびっしり乗っているものや、パラパラとちりばめられているものがあります。食べると小豆のホロホロ感とういろうのムチムチ感が味わえます。

さて、この水無月の三角形は何を表しているのか、というと、暑くなり始める季節に備えて「氷を食べて無病を願う」という行事があったことから「氷の形」であるとも、「龍神の鱗の形」であるとも言われます。

現代の「かき氷」のようなものは、平安時代には既にあったと言われていますが、冷凍庫の無い時代に氷を溶かさず保存しておくことはたいへんなことで、貴族にとっても氷はとても貴重なものでした。

その氷を保存しておくには「氷室」と呼ばれる、山中の洞窟などを利用して保冷していました。

この氷室は貴族でしか用意できない施設であり、一般の庶民にとって「かき氷」はとても手に届かない菓子でした。

そこで氷の代わりとして誕生した和菓子が「水無月」だと言われています。特に白いういろうの生地でできた水無月は、見た目が氷に似て涼しげです。

なお、氷を食べる行事とは「(現在では旧暦の)6月1日に氷を食べると、夏の間は病にかからず夏バテもせず、元気に過ごせる」という言い伝えによるものです。

この行事のことを、6月1日に氷を食べる「氷の節句」または「氷の朔日」と呼んでいました。ちなみに旧暦の6月1日とは、現在の6月27日頃になります。

貴族はこの日に氷を食べましたが、一般庶民にはもちろん氷は手に入りません。そこで代わりに水無月を食べて、無病息災や夏バテ防止を願ったと言われています。

この水無月、特に京都の方では、6月頃から普通に和菓子屋などに出回る和菓子です。また、あまりにも普通にあるために、京都の方は「日本全国にある」と思い込んでいる方も多いようです。

普段、自分の身の回りにあるものでも、地域によっては無い場合がある、というのは気付けば面白いことですね。

そこで「水無月は東京の方でも買えるのか?」ということを調べてみたところ、どうやら買えそうです。以前、新宿の百貨店で6月限定で売り出されていました。

また銀座の百貨店内の和菓子屋さんや、東京では有名な、とらやさんなども6月の間限定で、置いてあるようです。

また、京都の老舗の和菓子屋ではインターネットで買えるところもあるようですよ。

京都以外でも、京都の和菓子が買える…「その場に行かないと食べられない」という特別感は減りますが、情報社会や技術発展の素晴らしさを感じますね。

しかし、夏の暑い時季に盆地の京都で、風鈴の音や蝉の声を聴きながら食べる和菓子も格別です。やはり空気までは現地に行かないと味わえませんね。

かしわ餅、端午の節句の頃になると出回る柏の葉の良いにおい

「かしわ餅」といえば、5月5日の端午の節句の頃に出回る和菓子ですね。そのため、この節句のお祝いの席にも登場することが多く、若い方にもいくらか馴染みのある和菓子だと思います。

それでは、5月5日の端午の節句に柏餅を食べるのには、どのような理由があるのでしょうか。

かしわ餅とは、かしわの葉が使用されているお餅で「柏餅」と書きます。

うるち米をひいて作られた上新粉をこねて餅状の生地にし、それでこしあんや粒あん、関西の方では小豆の他に、白みそでできた甘辛いあんこを包みます。

それぞれのあんこを包んだものを、塩漬けにした一枚の柏(槲)の葉で巻きます。

この時の葉っぱの裏表で中身の違いを表すとされ、表側が餅に密着するように巻いたものは、中身があんこで、その逆の葉が表に出ているものだと、中身は白みそあんだとされています。

かしわ餅の葉っぱは、香り付けや、餅表面の乾燥を防ぐ目的として巻いていあるものであり、また、食べるのにはちょっとかたいため、外して食べるのが一般的です。

それでは、どうしてこのかしわの葉が使われるようになったのでしょうか?

その元々の理由は、かしわの葉の代わりに使われていた「サルトリイバラ」の葉の代用品であったようです。

江戸時代、江戸に田舎から伝わってきたかしわ餅ですが、その葉に使用されるのは「サルトリイバラ」の葉が一般的だったようです。

現在でも四国地方などでは、かしわ餅の葉をサルトリイバラの葉で作っているところがあります。

しかし、サルトリイバラの葉は田舎の方でしか取れない葉だったようです。その代わりに、江戸では、江戸でも手に入りやすい、かしわの葉を使い始めたのが元々の理由です。

葉っぱから良い香りがすること、そして、子孫繁栄の縁起物であるとされ、何とか江戸の人々に定着する形となりました。

かしわの葉は、冬になっても落ちることがなく、次の年に新芽が芽吹いてくるまで、古い葉がそのまま残ります。そのことから「代が途切れることがない、縁起物である」とされたのです。

それが、端午の節句に用いられるようになった由来だと、言われています。

ちなみに、この端午の節句、関西ではかしわ餅よりも、ちまきを食べる方が一般的です。「ちまき」といっても中華料理や東南アジア料理の一種である、竹や葦の葉で包んだおこわのようなものではありません。

関西の方で、端午の節句に食べられる「ちまき」は、中国から伝わったものにはかわりありませんが、甘い笹餅のようなものです。

餅米や米の粉などをこねて蒸し、ついたりしたものを菖蒲の葉や、笹の葉で細長い円錐形に整えながら包みます。

その後、わらで巻き縛って崩れないように形を整えたものを、蒸す、煮るなどして仕上げます。

その他、笹の葉を巻いて作る和菓子は、この、ちまきから「麩饅頭」や「笹の葉を巻いて作る羊羹」などに派生し、和菓子の幅を拡げました。

さて、できがったちまきは、笹の葉を剥いて食べます。食べると笹の良い香りが口いっぱいに広がります。中身は何も入ってないものや、あんこが入っているもの、また餅の生地自体にヨモギが入っているものもあります。

ところで、なぜ「ちまき」というのかというと、元々は茅(ちがや)の葉で巻いたから「茅巻き」である、とされています。

茅の代わりに使用されるようになった笹の葉には、抗菌効果や防腐効果があり、その包んだものが「腐敗しにくい」ということから「悪霊などから守られる」との連想につながりました。

草餅、その美しい緑に「春が来た!」と感じられる和菓子

草餅は、今では一年中見られる和菓子で、草の香りが爽やかなのが特徴ですね。「あの爽やかな風味とあんことの組み合わせが大好き」という方も多いのではないでしょうか。

では、緑色とその香りも爽やかな草餅の旬ですが、元々はいつだったのでしょうか。

本来、草餅は春の和菓子とされ、3月3日の桃の節句である「ひな祭り」の日に菱餅などと一緒に供えられ、食べられていたものです。

その緑色は、ヨモギの葉を餅米につき込むことで作られます。見た目にも爽やかな緑の生地は、菜の花ともよく合い、春を感じられる風情に仕上がります。

それでは、なぜ、3月3日の桃の節句にヨモギの餅が選ばれたのでしょうか?…その昔、ヨモギは「魔除草」とも呼ばれており、人々に親しまれていました。

実際、様々な有効成分を含む「薬草」でもあるヨモギは、身体に良いとされる多くの成分から「ハーブの女王」という別名もあるほどです。

食物繊維や、血液中のヘモグロビンの生成を助けるクロロフィル、βカロチン、ビタミンB1やB2、リノール酸などが豊富な上、アロマ効果や殺菌作用もあるヨモギ…。

あなたも小さい頃に、野山でケガをしたらヨモギを、と母親やおばあちゃんに言われたことが、あるのではないでしょうか。

また最近では、ヨモギを使った美容方法である「ヨモギ蒸し」が、若い方の間で話題を呼んでいますが、このヨモギ蒸しとは、韓国で600年前から行われてきた民間療法です。

さらに日本でも、江戸時代という古の時代から行われている「お灸」という民間療法がありますが、ヨモギは、これに使うもぐさの原料にもなっています。

以上のことからも、たいへん身体に良い植物と言えるでしょう。

ヨモギは3月から5月初旬にかけて柔らかい新芽が出てきます。食用にするのには、特にこの時季が旬と言えます。

身体に有効な成分が多く、健康に良いことと、3月頃の新芽のヨモギが食用にするのには良いことなどが、3月の桃の節句に使われる理由と言えるでしょう。

さて、ここまでで、ヨモギが3月3日の節句に選ばれたのには、その香りが良いことや、有効な成分のせいだ、という紹介をしました。

その他にも理由があります。それは、ヨモギはとても繁殖力の高い植物だという点です。

ヨモギの根っこはとても丈夫で引き抜くのは困難です。さらに、除草剤にも負けないほど、地下に地下に伸びている場合もあります。

その丈夫な根っこを取り去らない限りは、葉っぱは成長し続けてしまいます。しかし根っこがとても丈夫な上、地下に伸びている部分も多いため、それを取り去るのは一苦労ということです。

そんなヨモギに対して「子孫繁栄」という思いを重ね、女の子桃の節句のお祝いをしたのが、ヨモギでできた草餅の由来です。

寒い冬から春になり、柔らかく芽吹いたヨモギの新芽を使った草餅は、食べるだけで「ヨモギが春に向けて蓄えてきたエネルギーを頂ける」、そんな気がする和菓子ですね。

また、お花見の際には、ぜひ一緒に持って行ってください。ヨモギは肝臓にも良い、と言われているので花見酒をされる方にはちょうどよい花見だんごになりますよ。

おはぎとぼた餅って同じ物?その秘密は萩の花と牡丹の花

おはぎとぼた餅は、よく似ています。「何が違うの?」という疑問を持っている方も多いのではないでしょうか。実は、二つは同じものです。

おはぎは「萩の花」とも呼ばれ、ぼた餅は「牡丹餅」と書きます。どうして二種類の違う呼び名がついているのでしょうか。

おはぎとぼた餅について、その違いを語る時、「あんこがこしあんか粒あんかの違い」であるとか「おはぎはゴマとかきな粉が付いてるもので、ぼた餅はあんこだ」など色々な意見があります。

どちらも、餅米やうるち米を蒸して、粒が残るくらいに粗めについたものに、きな粉やあんこ、青のりやゴマなどをまぶしたもののことを言います。

米を半分潰して作る、ということから「はんごろし」という恐ろしい別名もあります。

「ぼた餅」と呼ぶのには、お盆に並べた時の見た目が、牡丹の花が咲きこぼれているように見えることから「牡丹餅」と呼ばれるようになりました。

また、「おはぎ」と呼ばれるのには、特に小ぶりに作ったものが「萩の花の咲き乱れているように見える」ことから、「おはぎ」と呼ばれるようになった、という説があります。

その他、元々「萩の花」と呼んでいたのが、それの女言葉である「おはぎ」のまま定着した、とも言われていますが、おはぎと牡丹餅の使い分けについては、各地により諸説あります。

一般的な使い分けでは、どちらもお彼岸の時季に食べるものだということで、春の彼岸に食べるものは、春に花が咲く牡丹で「牡丹餅」、秋に食べるものは、秋に花が咲く萩で「おはぎ」という説が有名です。

また、地域によっては粒あんのものをおはぎ、こしあんの小ぶりなものを牡丹餅、と呼ぶ場合もあるようです。

では、お彼岸におはぎや牡丹餅を食べる風習は、いつ頃からあったのか?また、どうしてそのような風習ができたのか?というと、江戸時代には既にできていたようです。

当時、おはぎや牡丹餅は、家庭で作られる庶民的なもので「家庭の味」とも言えることから、ゴマやきな粉などの色々なバリエーションが生まれたのでしょう。

また、この頃には和菓子屋で売っていることもあり、作らなくても買うこともできたようです。

お彼岸には、あんこを使ったおはぎや牡丹餅が食べられる理由ですが、昔の人は「小豆の赤い色には邪気を払う力がある」と信じていたことが理由の一つです。

現在でも、神社の鳥居や、神社の鐘の本坪鈴からのびる鈴緒などに、赤い色が使われていますね。

また、砂糖が高級品であった昔、「せっかく先祖も家族もそろってのお彼岸なのだから、ちょっと贅沢をしよう」ということで、砂糖と小豆を使用したおはぎや牡丹餅が、家族や親戚、近所にふるまわれた、ということです。

その他、おはぎや牡丹餅の別名としては、餅米をすりつぶして作るので、餅をつく時のように「ぺったんぺったん」と音がしない、隣も知らないうちに出来上がることから「隣知らず」という別名があります。

また、いつ餅米をついたのかわからない、知らない間にできることを「暗い夜は、いつ船が船着き場につくのかわからない」ということにかけて「夜舟」などとも。

おはぎや牡丹餅の見た目を、月の見えない夜に例えて、「小豆の星があるばかりで月が見えない」また「真っ暗だからつくのが見えない」ことから、月の光が無い「北の窓」とも呼ばれることがあります。

桜餅と道明寺はちょっと違う…春先に食べたい和菓子「桜餅」

桜餅と道明寺は、共に桜の葉を使用した和菓子です。春先の、桜が咲く季節には特に口恋しくなる和菓子ですね。

その優しい桜色と、塩漬けにされた桜の葉の香りで「今年も春がきた」と、実感される方も多いことでしょう。

さて、そんな似た者同士の桜餅と道明寺ですが「どっちがどうで違いは何なの?」という疑問を持っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回はその二つの桜の和菓子について紹介していきます。まず桜餅と道明寺は、関東か関西かの違いがあります。

現在では、どちらもある程度日本全国に普及しているため、特に、関西の方ではこっちが無い、とか関東ではこっちが無い、ということは少ないようです。

しかし「さくらもち」といえば、元々は関東の方では「長命寺」、と呼ばれる桜餅を指す場合が多く、関西の方では逆に「道明寺」を指すことが多かったようです。

そのため、今でも関東出身の方には、道明寺はあまり馴染みのないことが多く、逆に関西出身の方は桜餅といえば道明寺、という方が多いようです。

その他、外見でわかるように二つの和菓子の大きな違いは、あんこを包んでいるその生地です。関東の桜餅「長命寺」の生地は焼いた小麦粉の生地であんこを包んでいます。

関東の桜餅「長命寺」は、江戸時代中期に隅田川沿いの長命寺で生まれた、という説が有力です。

長命寺で門番をしていた者が、桜の葉で包んだ餅を売り出したところ、美しい桜並木とともに名物となったそうです。

この長命寺の桜餅は、和菓子が好きな方ならご存知かもしれませんね。現在でもその姿を変えず「長命寺桜もち」として売られており、春の桜が咲く時季には特に人気で、行列ができる日もあります。

この二種類の桜餅を区別するために、関東の桜餅のことを「長命寺」、関西の桜餅のことを「道明寺」と呼んで区別する場合もあるようです。

なお、桜餅の葉っぱはそのまま食べる方と、外して食べる方がおられます。好みにもよるので、食べる本人がおいしく食べられればそれが一番です。

ちなみに、長命寺の桜餅の場合は、香り付けと乾燥を防ぐ目的でついているので、外して食べる方がおすすめのようですよ。

それでは、次に関西の桜餅「道明寺」について紹介します。

道明寺は、「関西のもの」ということを表すように、別名では「京風桜餅」や「上方風」とも呼ばれます。その名前の由来となったのは、大阪府にある同名の寺でした。

このお寺では、蒸した餅米を乾燥させて、粗めにひいた粉を保存食として使用しており、その粉のことを「道明寺粉」と呼んだそうです。

長命寺のものが小麦粉の生地であるのに対して、道明寺の生地は、その餅米の粉を使用しているため、おはぎに使用されるような、粒が残った餅米の生地で、あんこを包んでいるものとなっています。

なお、道明寺に巻いてある桜の葉は、剥がしにくいことと、剥がしたら手が汚れる、などの理由もあり、葉っぱごと食べる方が多いようです。

異なる二つの桜餅、どちらが好みかはその人がどちらに馴染みがあるか?という出身地の違いによるかもしれませんね。

まんじゅうこわい…落語に登場するほど身近な和菓子「饅頭」

饅頭(まんじゅう)は、私達日本人にはもっとも身近な和菓子の一つであり、古くから庶民にもたいへん親しまれてきました。その証しに、古典落語にも「まんじゅうこわい」という演目があります。

この演目のあらすじは、ある時に数名集まった男達が、それぞれ「自分の怖いものは何か?」というものを言い合います。

「クモ」や「ヘビ」などという答えが出る中「お前ら男のくせに情けないな、俺は怖いものなんて無いぞ」と偉そうに言う男がいました。

「本当に怖いものは無いのか?」と詰め寄られたその男は、しぶしぶ「まんじゅうがこわい」と言うのですが…実はこれは男のついた大ウソでした。

その後「あいつは生意気だから、まんじゅう攻めだ」と男達からまんじゅう攻撃にあったその男は、喜んで全てのまんじゅうを食べてしまった、というお話です。

饅頭好きにはたまらない、うらやましいお話ですね。このように昔から親しまれている饅頭には、日本中で様々な種類が誕生しました。

温泉の多い地域では温泉饅頭、麹の発酵する力を使用する酒饅頭、黒糖の香りがあんことよく合う黒糖饅頭などなど…

その他、山芋や大和芋などが皮に使用されるじょうよ饅頭、夏に涼しげな葛饅頭など、皮と中身の工夫により、何通りにもなる饅頭の種類は数え切れないほどで、実に数十種類以上はあるとも言われています。

さて、そんなみんなに愛される饅頭ですが、どこからやって来て、そもそもの起源はどういったものだったのでしょうか?

…饅頭はその昔、中国から伝わった蒸し菓子の一種だと言われています。中国には饅頭の起源に関する、こんな伝説が残されています。

中国の南方のある地方では、神様へのお供え物の一つに人の生首を使用する地域がありました。「三国志」にも登場する諸葛亮孔明はそれを見て

「これはどうも野蛮だから、別の物で代用できないか」と考えたそうです。

その結果、豚や羊の肉をうどん粉で練った生地で包み、表面には人の顔を書いたものを代用品としてお供えするようになったということです。

当時、そのものの名前は「蛮頭(ばんとう)」と呼んだそうですが、これが、そもそもの饅頭の起源だという伝説です。

饅頭の元々の姿が、「神様へのお供えものである生首の代わり」だとは、びっくりですね。

その饅頭が、鎌倉時代に日本に伝わってしばらくは原型をとどめていたようで、砂糖の普及する室町時代の末期頃までは、中身のあんは甘いものではありませんでした。

では何が入っていたかというと、蒸した野菜や豆類などが入っており、現在の「おやき」のような、塩味のあんが入っていたようです。

名前も「菜饅頭(さいまんじゅう)」と呼ばれ、お菓子というより現在の肉まんなどに近い存在でした。

では、中国で生まれた肉入り饅頭の中身が、なぜ、日本では野菜や小豆などの豆類になったのでしょうか?

その理由は、宗教的に肉を食べることが禁じられていた、当時の日本人に合うように、肉の代わりに豆などで代用されたという説が有力です。

その後、江戸時代には甘い饅頭が出回り始め、塩味の物と区別をつけるために「砂糖まんじゅう」と呼ばれました。もちろん当時の庶民からもたいへん親しまれたそうです。

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