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和菓子と日本人の関わり、その長い歴史とは

日本のお菓子「和菓子」…その和菓子とは、どこからやってきてどのように発展したのでしょうか。

現在では、だんごから大福、カステラやたい焼きなど、和菓子には色々な種類があります。

しかし元々、日本で「菓子」を指すものと言えば、「果物」やクルミなどの「木の実」といった、自然の中にあるもののことだったようです。

それが、奈良時代から平安時代にかけて、中国から、米粉や大豆、ゴマ、小麦粉などを使用し、蒸したり揚げたりして、加工して菓子を作り出す方法が伝わりました。

その後、奈良時代の後期から、少しずつ砂糖が普及し始めました。鎌倉時代から室町時代にかけては、茶道が発達したことで、砂糖を使用した甘い菓子の需要が大きくなり、甘い和菓子が急速に発展しました。

安土桃山時代から江戸時代にかけては、ポルトガル人が長崎に出入りするようになりました。

その結果、大量の砂糖や、卵を食べるという西洋の文化などを持ち込みました。これにより、和菓子はますますその幅を広げ、発展を続けました。

また、江戸時代になると、和菓子と、果物や木の実が分けて考えられるようになり、和菓子というジャンルを確立した、と考えられています。

そして現在にいたります。…現在では、地域それぞれに発展した色々な和菓子が存在しています。もちろん、それぞれがその地域の特徴を活かしていたり、歴史を表すような良い和菓子となっています。

では、日本の中で「特にこの地域の和菓子がおすすめだ」という地域はあるのでしょうか。

それには、やはり、京都が外せません。和菓子が発達した理由の一つには、「茶道の発達」があります。茶道にはいくつかの流派がありますが、そのうちの有名な流派の本家は、主に京都に集中しています。

茶道の流派で有名なものと言えば「三千家」というものがあり、「表千家」「武者小路千家」「裏千家」が挙げられます。

千利休を祖とする、「表千家」の宗家は、京都市上京区に、「武者小路千家」の宗家は京都市上京区武者小路通りに、また、「裏千家」の宗家も京都市上京区にあり、表千家と隣り合った場所に存在しています。

茶道が発達していることで、和菓子の需要が増え、それとともに発達した優れた和菓子が、現代まで数多く残されていることが、京都の和菓子が特においしい秘密なのですね。

また、茶の席に使う和菓子とともに、普段遣いで食べる和菓子も発達し、おまんじゅうやだんごなど日常的に食べられるものも、数多く発達したと考えられています。

和菓子の店舗が多いことでも、それぞれのお店が切磋琢磨し、レベルの高い和菓子を保ち続けている秘訣と言えるでしょう。

その他、金沢も茶道が発達した場所の一つです。現在も庭園や茶室などが数多く残っており、観光地となったり、今もお茶会などに使用されている場所もあります。

また石畳に昔ながらの町家が並ぶ風景は、京都にも負けない風情が漂います。金沢にお出かけの際は、風景の他に和菓子にも注目してみてくださいね。

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あんこ、あってこその和菓子

あんこは特に、和菓子には欠かせない存在ですね。和菓子が好きな方の中には「まんじゅうや餅などの、外側の皮がなくても、あんこだけでも食べられる」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。

あんこは、地域の特色や、作る和菓子に合わせても、色々なものが作られています。まずは、小豆から作られる、粒あんやこしあんがあります。

また、うぐいすあんパンなどに入っている黄緑色があざやかな「うぐいすあん」は、青エンドウ豆からできています。

白あんパンなどに入っている白あんは、白インゲン豆からできています。なお、この白あんは手亡(てぼう)あんとも呼ばれます。

この手亡あんに使われるお豆は、お惣菜売り場などで「手亡豆」や「おたふく豆」という名前で、甘い煮豆になって売られていますね。

この白あんは、色が白いことで様々なバリエーションをつけることが可能になっており、抹茶や桜を加えて抹茶あんや桜あんとしたり、また、上生菓子とも呼ばれる「練りきり」のベースや、同じく上生菓子の「きんとん」のあんなどのベースにもなります。

その他、枝豆を使ったずんだあん、さつまいもを使った芋あん、紫芋が使われる紫芋あん、かぼちゃで作るかぼちゃあん、栗で作る栗あんなど、特に糖質が主成分のものは、あんこを作りやすい食材です。

さて、そんな和菓子には欠かせないあんこですが、どうしてできたのでしょうか。

ここで改めて、一般的なあんこの紹介ですが、小豆の粒が残っているあんこを粒あん、粒の無い、なめらかなものをこしあんといいます。二つのあんこの違いは、粒の有る無しと、作り方です。

粒あんは、柔らかく煮た小豆に、砂糖と少量の塩を加えて、水気がある程度無くなるまで煮詰めて作ります。一方、こしあんは粒あんよりもひと手間かかります。

柔らかく煮た小豆を、豆と煮汁に分け、豆を少しずつ網目の小さな漉し機にかけ、豆の中身を漉します。漉せたら、それに水を加えて上澄みを捨てることを何度か繰り返します。

出来上がった「生あん」を巾着に入れ、水気を絞ってから鍋に移し、砂糖を加えながら練り上げます。

そんな、和菓子に欠かせないあんこの誕生についてですが、羊羹の記事でも触れましたが、あんこは元々は、肉類の代用品であったと言われています。

鎌倉時代に、中国から点心というものが伝わりました。点心には肉類が使われていましたが、その頃の日本人には、宗教上の理由もあり肉類を食べることがありませんでした。

そのため、肉類の代用品として、身近な食材である小豆などの豆類を使い始めたのが、あんこの由来だと言われています。

饅頭などにも使われていたあんこは、肉類の代用品ということで、当初は塩で味付けされたものだったようです。

その後、室町時代になり砂糖が段々と普及し始めたことや、江戸時代にかけては茶道が発達したことで、甘い和菓子の需要も増えました。

そのようなことなどが影響し、あんこの味も塩味のものから甘いものへと変わっていきました。外国の文化を日本に合うものに変化させたことが、あんこが誕生するきっかけとなったのですね。

きんつば…カクカクした不思議なあんこのカタマリ

「きんつば」とは、あんこの塊を約1、5センチくらいの厚さの六面体にしたものを、薄い小麦粉の衣や米粉の衣で焼き付けながら覆ったもので、不思議な正方形の和菓子です。

中身は粒あん、または、さつまいもで作られた芋あんであることが多いですが、桜の咲く時季には桜あんなどのきんつばも出回ります。

金色でもなく、丸いツバのようでもないこの和菓子ですが、なぜ「きんつば」と呼ばれているのでしょうか。今回はきんつばについて紹介します。

きんつばは、元々京都で生まれ、江戸に伝わった和菓子だったようです。名前もきんつばではなく、「ぎんつば」でした。

江戸に伝わった時に、「ぎん」から「きん」に変わった理由については、いくつかの説があるようです。一つは、銀よりも金の方が縁起が良いからという説です。

その他、その頃の京都での主流の硬貨が銀色だったのに対し、江戸で主流の硬貨は、金色だったから、などの理由が伝えられています。

さて、きんつばの「ツバ」とは、刀の持ち手と刃の間にある、楕円形の円盤のことです。

現在のきんつばは四角いものがほとんどですが、伝わった当初のものは、このツバのように丸い形だったようです。

いつしか「丸いよりも四角い方が美しい」、「四角くすることで、鉄板の上で焼くのに場所の効率が良い、一度にたくさん焼ける」などの理由から、四角い形が主流になりました。

なお現在でも、丸いきんつばを作っているところもあります。富山県では、丸いきんつばが今も作られており、名物となっています。

さて、現在のきんつばは、名前も「ぎんつば」から「きんつば」に変わり、形も丸いものから四角いものが主流となっています。

元々の丸いきんつばは、あんこを丸い形に整えて、米の粉でできた衣を焼き付け、本物のツバのような模様も焼き付けていました。

それに対して、江戸に伝わったあとの六面体のきんつばの衣は、小麦粉へと変化しました。

この頃、江戸と京都でどちらが良い和菓子を作るか、と競り合っていたとも考えられ、京都のものと区別する意味で、小麦粉に変わったのかもしれません。

また、中身に使うあんこも、丸形からキッチリとした四角い形になり、その形を保つため、寒天で固められるようになりました。

寒天で固められているあんこ、ということで特に芋あんの場合は、芋ようかんを四角く切って、それに生地を焼き付けるものもあります。

また、中身のあんこを取り巻く衣の焼き付け方については、店舗によって二種類ほどの違いがあるようです。

なるべく薄い生地の衣になるように、あんこの表面にハケで生地を塗って焼き付ける店と、あんこを手で持ち、生地の入ったボウルにサッと付けて焼く店があり、仕上がったあとの食感などに違いがでてきます。

きれいに衣が焼き付けられたきんつばは、ぱくっと噛んだ瞬間に、表面の衣がぷちっと弾け、あんこのしっとり感が際立ちます。

きんつばを食べる際には、衣の違いにも注目してみると面白いですよ。

らくがん…飾るだけじゃなくて食べてください!おいしいですよ

「らくがん」というと「お盆に出回る、ハスや菊の花、またナスなどの形の飾り物」を思い浮かべる方がほとんどなのではないでしょうか。

「食べ物ではない」「ただの飾り物だ」と思われている方もおられるかと思うので、らくがんとは何か?というところから紹介していきます。

らくがんとは、漢字で書くと「落雁」となります。和菓子の分類では、金平糖や、おせんべいの八つ橋、おこしなどと共に「干菓子」というお菓子に分類される、水分量が15%以下のお菓子です。

らくがんの原料は、「落雁粉」と「砂糖や水飴」という、ごくシンプルな材料でできています。そのため、らくがんを作る際には、材料選びもとても大切な作業となります。

この「落雁粉」というのは、一度蒸した餅米を干してカチカチに乾燥させ、細かく粉状にひいたものを、さらに炒ったものです。

この落雁粉と砂糖や水飴を混ぜ、色々な形の「専用の木型」に押し固めたものを、乾燥させて仕上げます。材料も作り方も、とてもシンプルなお菓子です。

この専用の木型は、らくがんを作っている老舗の和菓子屋では、そこで代々使用している歴史的な価値があるものが置いてある場合もあります。

らくがんのおいしいところは、その口溶けです。口に入れた瞬間に、ほろっとほどけるようなその食感は、お茶うけにぴったりです。

そのため、特に良い素材でできているらくがんは、茶道のお茶の席で使用されることも多々あります。

というのも、作る際の木型や、落雁粉に着色する色によって、色々な季節を表す形のものを作り出すことができ、一年を通して旬のお菓子になることができるからです。

お盆にスーパーに並ぶらくがんは、菊などが多いですが、お茶の席で用意されるものには、水紋を表したものや、イチョウの葉、アジサイの花や、亀に鶴、鳩など、色々なものがあります。

その見た目に、箱を開けた瞬間に「わあ…」という歓声がこぼれそうなほど、可愛いものが多いです。

もし京都などで見かけたら、ぜひお土産に持って帰ってみてくださいね。きっとその美しさと可愛らしさに驚かれることでしょう。

さて、「落ちる雁」と書くらくがんですが、これにはどういった起源があるのでしょうか。

…これには、いくつかの説があります。有力なある一説では、最初に作られたらくがんの見た目が関係している、という説です。

当初のらくがんは、その表面に黒ごまが散らしてあったようです。

その様子が、滋賀県の優れた風景「近江八景」の一つ、大津市の浮御堂の辺りである「堅田落雁(かただのらくがん)」という風景に似ていたそうです。

その風景とは、琵琶湖の上を夕日の中、黒い雁の影が並んで飛ぶ風景であり、それに似ているということから落雁と呼ばれるようになったと言われています。

しかし京都の方では、近江八景についての逸話が語られる以前から、「このお菓子は、らくがんと呼ばれていた」という説もあり、明確な理由は明らかになっていません。

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